E邦人の帰国 《樋渡基道ブログ》

E邦人とは、英語圏の言葉や文化を理解することになり、自分が生まれ育った場所の印象が変わってしまった邦人……つまり僕みたいな人間のことだ。

書くことについて語るときに僕の語ること

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エスプリ・アレーナ

気を抜いていたら、最初の投稿から三か月が経った。

毎週か、長くても隔週で書き続けていこうという決意がいかに生半可なものだったか、早くも実証された形だ。

書きたいことはたくさんあって、脳内ではブログを何度も投稿している。ただ、通勤電車の中で、スマホの画面を前にすると、指がなかなか動いてくれない。

 

40歳からブログを始めようと思い立った際、過去の20歳ごろの自分に語りかけるつもりで何かを書き残していこうと考えていた。今の状況には、20歳の僕でさえきっとこう言うだろう、「倍の長さを生きてきたのに、相変わらずのんびりしてんなぁ。」

 

小さい頃から文章を書くことと絵を描くことが同じくらい好きで、他人からそのどちらかで認められると、心から喜んだ。漠然と、大人になっても、ずっと書いたり描いたりしながら生きていくと思っていた。どうして好きになったんだろう。その原体験は、たぶん小学校低学年まで遡る。

日常をテーマにした詩をいくつか、母が地元のサガテレビSTS)に送ってくれたのだが、そのポエムがまぐれで放送され、毎年刊行される詩集にも数回掲載してもらった。図画工作の授業で大きな画用紙に描いた同級生の肖像画を、担任の先生が『世界児童画展』に応募してくれて、たまたま入賞し、福岡天神のデパートの展示スペースに飾られた。そんなことだ。

 

生まれもった特技というより、この小手先の趣味で周りを楽しませたいという気持ちは、進学してからも持ち続けていて、中学生時代には本の中身とは無関係のことばかりを綴った読書感想文や先生のデフォルメされた似顔絵で友人を笑わせたり、高校の時にはちょっと真剣にイラスト付きの小説(今でいうライトノベル風なもの)を書いてみたりした。留学先のカナダの大学では、論文で教授を唸らせることに日々腐心していた。指が痛くなるくらい、とにかくキーボードを叩いた。英語は上達したが、この頃から、だんだん絵を描く機会は減っていった。

  

画用紙から遠ざかっても、しばらくのあいだは、趣味は絵を描くことだと言っていた。思春期の辛い時期、僕は絵を描くことで心の中が和らいで、幾度も救われた。だから、簡単に絵をやめるつもりはなかった。東京で就職してからも、デッサン教室に通ってみたし、色んな絵画展に足を運ぶ度に、僕の中の描きたい意欲が掻き立てられた。だけど、本物のアーティストやデザイナーに多く出会う中で、彼らの才能や覚悟に触れ、易々と絵を描くことが好きだと言えなくなった。気付けば、他人に見せる作品はなくなっていた。

 

そして、書くことだけが残った。

 

昔からおしゃべりが得意なタイプではない。どちらかと言えば、寡黙な部類に入る。頭の回転も決して速いほうではない。みんながいる場で言いたいことを言えずに悔しい思いばかりするし、気の利いたジョークは大概、その場の話題が変わった後になって思いつく(そんな時に限って結構面白かったりする)。だから、落ち着いて、じっくり時間をかけて、思考をテキスト化する行為は僕の自己表現になくてはならない。

 

26歳でカナダで大学院を卒業して、日本に帰国してからずっと、ミクシィTwitterfacebook、時にはノートに、日記とも自伝とも、呟きともぼやきともつかない文章をだらだらと書いてきた。その量は少なくはない。特定の読者に閉ざされていたけど、書いたものを読んでもらってコメントをもらうととても嬉しかった。僕がいつか文章を書く自分のメディアを持ちたいことを知り、そのためには毎日書き続けたほうがいいとか、楽しみにしているとか言って温かく応援してくれる人もいた。その数もまた、ありがたいことに少なくはなかった。

 

優れた文才があるとは思っていない。どうやら早熟なタイプでもなかった。けれども、書き続ける情熱が足りないとも感じていない。他者に伝えたい物語もたくさんある。だから、特定の誰か向けではない、ブログを始めてみることにした。このブログはいつまでも、炎上するほど注目されることはないだろう。それでも、ちりちりと小さな火が消えることなく、暖かく誰かを照らすことができればいい。そうすれば20歳の自分にも胸が張れる。